向田邦子さんのことは知ってますか?
きれいな人です、本当に。テレビドラマの脚本家でもあり小説家でもありました。
「たおやかさ」という言葉が彼女には似合うように思えます。しなやかさを持ちながらも、折れることのない、そんな若木のような女性はなかなかいません。
そんな彼女を撮影したモノクロームの写真から始めます。それは帽子をかぶった彼女の横顔です。シンプルな黒の帽子に左手をちょっと添えて、彼女は凛とした表情で映っています。ここに写った彼女はとても美しい。
写真とは不思議なものです。この世界から何か一瞬を切り取るという、まるで神にも似た作業の中に、カメラマンの目というものは必ずついてまわります。何を見て、何を見ないのか、何を写して、何を伝えたいのか。
カメラというものが記録としての装置から、いつごろから撮影者の表現ツールにもなったのか、考えてみるとこれは面白い問題です。
最初、カメラは絵画のための道具でした。「カメラ・オブ・スクラ」という名前のその装置は、小さなピンホールレンズを通して、箱の中に外の風景を反射させるためのものとして、これは一般庶民よりもむしろ画家たちに伝わりました。
十七世紀のオランダ派の画家たちはこの装置の恩恵を十二分に受けることで、驚くほど精密な風景画を手に入れることができました。あのフェルメールもそうです。画家たちは日光を遮断した箱の中にこもり、投影された風景を上から素描し続けたのです。
カメラ・オブ・スクラは確かに画期的な技術でしたが、十九世紀に入ると銀板に像を焼き付ける技術が発明されます。そうなるとカメラはもう野外の風景のみを対象にするだけでは飽きたらず、肖像写真へとその手を伸ばします。
続く二十世紀初頭、コダックが銀板に変わってセルロイドのフィルムを発明するようになるころには、カメラは画家たちの道具ではなく一般の人々にも伝わるようになりました。
無限に広がるこの世界のなかで、持ち運びのできるカメラの登場は、同時にレンズを覗く撮影者と写されるものの関係をより親密なものに近づけることを意味しました。カメラは部屋の中を撮影することもできますし、恋人たちの親密な愛の証にも使用されるようになります。
その場にいた者しか分からない親密な秘密、そのことを写真として外に公表すること。見るものと見られるものとの間で介在される、この「秘密と公開」という背反する働きは、かつては画家だけの特権でした。ピカソなどはアトリエという密室と性愛をテーマにしていくつも作品を描きましたが、その話はずれてしまうのでこのあたりにしておきます。
そこで向田邦子さんの写真に戻りますが、僕はこの少し緊張したような彼女の表情を通じてある空気を感じるのです。
この写真はあんまりにもきれい過ぎる。何もないモノクロームの背景といい、生活の要素は極力切り離されて、どこにもリンクしません。あるのは向田邦子、という女性の姿と、それを見るカメラマンの透明な視線のみです。
これは演出された写真です。
ここには撮る側の視線を意識し、無意識にそれに対応しようとして演じている彼女がいます。実際の彼女だって人間ですから、大根を煮たり、寝不足の顔にできた隈を気にしたり、スーパーでかごを腕にぶら下げて買い物をしたり、とごく普通の生活があるはずです。けれどもこの写真の中からそんな生活を見つけ出すことは難しいのではないでしょうか。
よく注意してみれば裏側から光を当てるように、彼女をそんな表情にさせるカメラマンの存在が透けて見えるでしょう。
彼がわたしをどのように見たいのか、カメラを前にした彼女はおそらくその事を感じていたに違いないのです。そのとき「撮る側」と「撮られる側」の間で何か感情というか、たましいというか、言葉にできないけれども温かいものが交流している気がするのです。幸福な、恥ずかしげな、満ち足りた空気を。
そうして彼が望むように、自分の中の美しい表情を見せたところに僕は愛情を見ます。だからそれを見る僕は、この写真がまたよくできているだけに、親密な夫婦の家を覗いたような気になるのです。
この二人の写真とまでもいかなくても、交流ということを最近よく考えます。わたしたちの生活は関係性でできている、というのが最近になって僕が思っていることです。
量子力学という学問にある〈コペンハーゲン解釈〉というのは、まだ難しくて僕には完全に理解できていませんが、簡単に言えば「観測するということが、観測される粒子に影響を与える」ということだと思っています。
たとえば我々が何かを観測する場合、そこには光の存在が必要不可欠ですが、その光にしてもそもそもが粒子だと考えるならば、我々が観測していると思い込んでいたものは、実際は「光の粒子の影響を受けたもの」であると考えられます。
コペンハーゲン解釈の真偽はともかくとしても、面白いと思うのはこの関係性です。
今までは「見る側・見られる側」は別々の存在だと思っていたのが、この考えから照らし出してみるとまったく違った面を見せてくるからです。
わたしとあなたは肉体的にも離れていて、(もちろん細胞的に見ると離れていますから)、当然こころも離れている。この距離を何とかしてつなぎ合わせるために、人間は様々な方法や道具を生み出してきました。それは言葉であったり、握手であったり、チョコレートに隠した気持ちであったり、和歌であったり、究極的にはセックスであったりと、そんな風にして、こころとこころを結びつける方法は、洗練され文化へと変化しながら、わたしたちの生活の中に浸透しています。
けれども、好きな人からもらうチョコレートはうれしいですが、そうでない人からもらうチョコレートはあんまりうれしくない。どちらも同じ気持ちを込めたチョコレートとしても差がある。この違いは何でしょうか。
思うに、そうでない人のは、自分のこころにうまく入り込めないからです。自分の中に何かしらが響く。逆に言えば、何も特別な事をしなくてもパーンと共鳴することができれば人は通じ合うことができるのではないでしょうか。もっとも、理解しあえると思っていたら全然違った、という風な勘違いも多々ありますけれども。
たとえばちょうど1m四方の布のようなものとして自分のこころを考えてみると、それは全部自分の色で染まっているわけではなく、パッチワークのように色々と他人が入っているように思えます。良くも悪くも、人間はそんな風に影響し影響されあいながら生きていくもののように思います。
たとえば自分の事を思い出してみても、誰かの一言、誰かの振る舞いが結果的に自分の行動に影響を与えているといえば、誰でも多少は思い当たるふしがあるのではないでしょうか。親友のさりげない一言がもとで仕事を決めたとか。彼女の何気ない笑顔が苦しいときに支えになったとか。
そんな風にわたしたちのこころを形成しているのは、どうにも自分ひとりだけではないようである。生まれたときから、自分は自分自身で作り上げてきたと考えるのは、もうこれは鈍感なだけだと思います。
この前、僕は「死なんとってください」と書いて、友達から「またエッセイ暗なったわ」と心配のお電話をいただいたぐらいなんですが、相変わらずその事を考え続けているのでお話しますと、本当に最近になって、死ぬことはやはり止めた方がいい、と思えるようになってきました。絶対ではないです。どうしようもない場合もありますし、絶対と言えるほど、まだ僕は考えがまとまっていない。けれども、あんまりしない方がいいよ、とは言える。
なぜならそれは関係性を一方的に破壊する行為であるから。自殺がある意味事故と似ているのはその点だと思います。
わたしの中にあなたがいる。あなたがいたことで、反射するように自分を確認しているわたしがいます。社会心理学では、これはどうも役割理論として言われているようですが、相手がいることで、わたしたちは何かその相手に対しての自分の役割を提供しているようです。保護者として、あるいはよきアドバイザーとして、などなど。
ある日、突然そのあなたが消えてしまう。そうするとその役割を演じていたわたしも、消えざるをえなくなるのです。そのぶんだけ空白を抱えてしまう。もちろん、親しさ、というかこころの交流の深さによって、その空白の大きさには違いはあるでしょうけれども、自殺しない方がいいというのは、そういう理由です。
それでもかまわない。他人に迷惑をかけていってもかまわない、と思える人は、死んでしまえるのでしょうが、自分の存在が影響しているような人は、やはり親しかった人ですから、言ってしまえば自殺は仲間の服を奪うような行為なのではないでしょうか。
〈私という個〉対〈他人〉という視線ではなく、〈私という部分〉と〈全体〉と考えてみること。その思考の転換が、もしかしたら何か自分の抱えている問題の解決の糸口になるのではないか、と今はそんなことを考えます。
そんなふうに、過ぎ去ったもの、つながったものに思いを馳せながら、僕は相変わらずこの部屋で君を想います。今日、かえりみち梅の花が咲いているのを見つけました。君に似て穏やかできれいな花でした。
まったく動きださないバンドなど頭のどこかで無視しつつそれでも俺は曲を作っていてこの前も「環境の哲学」というインスト曲を一つ作り上げたばかり。でも、まるで発表する当てがないのはどういうことか考えてみるにどうにも自分の音楽のテンションが見えてこない。欲しいものが見あたらない。まるで祭りの後みたいで息苦しい宵のなか大人たちが次々にテントをたたんでいくのを小学三年生の俺は眺めていて明かりが一つまた一つと満足げなため息とともに消えていく光景に優しく胸を締め付けられるような今そんな気分。
たぶん、自分BOXはもう終わった。
EJなんて名乗らなくなって久しい。「かまへんかまへん」とビール飲みながら部屋でつぶやいてみるがこの部屋では誰も返事はない。
ただ音符をいじくる、この部屋で音符をいじくっている。音符と音符を音符でいじくる作業の中で自分の中にわだかまっている「何かしら」の輪郭でも描き出すことができればいいなんて考えながら、出来上がっただけでもう満足している俺がいて、どのみちそれでいいのかもしれないとあいまいに思う俺がいる。
深く深くそれを突き詰めていけばもしかしたらどこかであなたに届くかもしれないと作った曲を聴きなおしながら考えることもあるけれども、距離を越えて時間を越えてあなたに届けばいいとそれはいつでも思うけれども。
どこにも発表する気もない曲をたくさん抱えて俺は深夜二時半にこんな駄文を書いている。そこそこに隙間を抱えて。そこそこに満足しているのもご愛嬌。
ここのところ夕方とか散歩していると暖かい。雲のない青い空がずーっと、ずーっと大気圏まで広がっているのを見上げたときに視界に入る木々の枝がとても好きで、たとえばそれはさながら画面いちめんを絵の具で真っ青に塗ったキャンバスを黒い線が何本も交差し切り裂きながら青色を区切っていくようにも見える、のは本当に良いことだ。その感情その感情を誰かに届けたいと思うけれどもどんな人と喋ってもどの言葉でしゃべってもそれを伝えることができないということに気づいたのがつい最近で。
しょうがなく苦笑いしてそれで終わり。
三十歳を超えて色々とひどいことが俺の周りにも降りかかってきたのを俺は感じていた。取り返しのつかない出来事に飲み込まれてしまいそのまま二度と帰ってこなかった奴等を俺はいくつも覚えている。彼等はみんな疲れてた。多かれすくなかれ俺の知っていた彼等ではなく、何かを喪失した人に成長していた。たぶん自分もそうなんだろうけれども。
俺はそれを眺めるだけ。せめてもの自分の仕事はそれを忘れないこと「運が悪かった」とか「弱かった」とか単純な結論に着地してしまってそのまま忘れてしまうようなことはせず、ただ眺める。ただその出来事を自分の中に取り込んでいこうとそっと思う。
このコラムが、どんな風に、展開し、どんな風に、終わるのか、俺は、知らないが。
やはり言葉ではうまく捕らえられないのを感じている。そのままの感情を言葉に無理やりに変換するとかなりの欺瞞を含めながらもこういう感じになってしまうのに、じゃあなぜ、こんなことを書いているのかと思えば、書かないとコラムが始まらないからだ。ケリつけないままフェイドアウトする真似は大嫌いだからだ。また書こうと思ったからだ。また書いてどっかの誰かの誰かさんにつながりたいと思うから書いたのだ。
けど伝わらん、伝わらん。全然全然伝わらん。
金曜日――知人にカラオケに誘われた俺はマイク片手にそれなりに騒いでいる。考えたら久しぶりのカラオケで若い人たちにかなり気を使って無難な歌でごまかしていた。
「むかし音楽やってたんだよねえ――」とバンドを本気でやっていた頃にはそんな言葉は絶対に吐かなかっただろうとトイレで手を洗いながらふっと思ったりもしたがそれはそれ楽しく時間は過ぎていく。どこか内心で醒めている予感もどこかであるのだが空気に酔ってしまうこともできるぐらいの器用さは持ち合わせている。
やっと開放されてから部屋に帰ってブリジット・フォンテーニュをコーヒー飲みながら聴いた。週末には俺は予定などないのでいくらでも時間があるような錯覚は結構気持ちよい。カラオケで飲んだ安アルコールがまだ残っているのを感じながら、さきほどの宴でいくつも交わされた会話を俺は鸚鵡のように反復してみよう。
電話番号、格好よいということ、バレンタインデー、ケーキのおいしいお店、友人の面白い話、彼女の悩み、彼氏の悩み、仕事のこと、昔の彼氏、「行きたーい」旅行話、再び電話番号、うるっぽい目つき、ややこしい約束、「飲む?」と彼女のグラスが何気なくこちらに回されるときの緊張と抵抗と憧れ、暗に示されるアピールの応酬などなど。
それらキラキラした会話の数倍もブリジット・フォンテーニュの方が真実であると俺はそのとき確信する。
「そうである、まったくそうである」と湯を沸かしながらつぶやく。
この瞬間に、何千匹もの猫が路上で轢かれています。この瞬間に、アル中の医者が若い娘の体の上で「まさか死ぬんじゃないだろうな、このあばずれめは」と罵っています。この瞬間に、五人の老婆が公園で「今は二十分前なのか五分前なのか?」と質問し始めています。この瞬間に、大勢の人々が人生は恐ろしいと思って泣いています。この瞬間に、二人の警官が救急車に乗り込んで、頭を負傷した若い男を川に放り投げています。この瞬間に、一人のスペイン人が仕事を見つけたことにとても満足しています。
世界は寒い
寒い
誰もがそれに気付き始めている
そして何処かで
火事が起こる
寒すぎるから
(ブリジット・フォンテーニュ「ラジオのように」)より
もう誰にも同一化できん俺が一人ここにいて。それはそれでもう仕方ないのだけれども。
どうかあんたにお願いです。
死なんとってください
本当に そう思う。
あけましておめでとうございます。
今年もコラムを続けていきたい、と思っているんですが、ちょっと集中的に制作に取り掛かりたいものがあるので、以前のように週一のペースではなく、もう少しゆっくりとした形で書いてゆきます。
まあ、どうなるか分からないんですが、とりあえず色々と挑戦しようと思っている2009年の幕開けです。
新しい一年が、これを読む皆にとって素敵なものになりますように。そんなことを思います。
こんばんは、自分BOXのEJです。
コラムの更新もお久しぶりですね。
さて、お知らせというか、連絡なのですが、自分BOXとしてのわたしことEJの活動に、しばらくお休みをいただこうと思います。辞めるわけではありません。
現在、メンバーもまったく忙しい状況のようで、俺も長いこと連絡取れていません。
そういう状態で、俺一人でBOXとして活動することはなかなか難しいんです。
個人だけではどうしてもモチベーションが保てません。
正直、今のBOXって「つまらん」です。
俺ならこんなサイト見ません。
少なくともHPを運営するからには、それなりの対価がほしい。
情報でも、レビューでも、音楽でもなんでも、
そこに〈何か〉があるから人はHPを見るように思えます。
以前はそれはPVであったり、企画であったりでした。
あるいは掲示板でのメンバーのやり取りもあったかもしれませんね。
かつては3人で集まって、そういうことができたんです。
お互いまだ大学生だったこととかありますけど、まあ社会人になって時間がなくなることとか、色々とあって、なかなかそのための時間が・・・確保できないのかな?
そういうわけで、よくあるように放置するのは、俺は嫌なんです。
こんなサイトですが、毎日15人ぐらいの人がチェックしてくれているんですね。
大手サイトと比べれば、そりゃ微々たる人数かもしれませんが、それでも見てくれている人がいるんです。その人たちをないがしろにするなら、はっきりと活動していないことを伝えたほうがいい。そうして次に活動再開したときに、また遊びに来てほしい、とそう判断しました。
ついでだから書いておきますが
● メンバーによる 「誰も聴かないCDレビュー」
某Book ●ffなどで格安で売られている、まったく得体の知れない古いCDをメンバーがレビューすると言うもの。意外な掘り出し物を当てるのが最終目標。
● EJの部屋
友人から初めて、現在クリエイティブな活動をしている人にインタビューするというもの。いいとものように、お友達を紹介してもらう予定。素人さんじゃなく、本気で創作活動している人などが対象。PRにもなるし、たぶんこちらも刺激を受けるはず。
などなど、色々とアイデアはあったんです。
面白そうじゃない?他にもまだまだあるんだぜ。でも、まあいいや。
アイデアなんて、浮かぶんです。
ただそれを実現する(CDレビューは、友人のリンクサイトフライヤーでちょっとやりましたけどね)ためには、ある程度の気力と情熱がいるんです。って、これ前の活動休止の時にも書いた気がしますね。
しばらく休んでいる間に、俺、自分の活動をやっています。
基本的にはBOXがないだけで、リンク先のフライヤーの皆さんから声がかかれば、そちらでお会いできるかもしれません。いつまで経っても出ないファクトリーの制作も(すばらしいジャケを描いていただいたり、曲のほうも7割程度進んでいるわけで)何気にやっております。
あ、メールもちゃんとチェックしておりますので、何かご連絡とか、お誘いとかある方はいつでもどうぞ。お待ちしております。特に、コラボ曲についてKさん、またご連絡くださいな。
というわけで、2回目の休みに入ります。
今後どうするのかは年末ぐらいに一度顔を出してまた追って連絡しようかな、と思ってます。
それまでBOXでの俺の活動はお休みします。takuにメールしといたので、俺がいない間の管理はtakuとGTに任せます。